私の脳には、
色彩センスやデザイン(配置)センスが
からっきし備わっていません。
いや、こうしたらきっとカッコいい!
漠然としたイメージはあるのですが、
それを実装するに至らず、
結果としてカッコ悪くなるわけです。
そしてこのイヤな経験をこれまで、
何度となく呻きたくなるほど繰り返しています。
こんなセンス0の私に向かって
10数年前、職業訓練校の先生が言ってくれました。
「センスのなさはスキルでカバーできるんだよ」。
講師をしてきた経験からすると、
「私、文章書くの苦手なの」という人に限って
どこか魅力を感じるようなキリっとした文を書く。
「私って文章、結構書けてますよね!?」
と私に向かって言う方は
べったりとした一人称の文章を見せます。
(主観)
これまで何度もブログに書いていますが、
私は未だにデザインセンスがなく、
そのセンスを補うほどの
スキルを学ぼうとする意欲が沸いていないだけです。
いや、やれば出来る!とどこかで今でも信じています。
やっていないだけです。やりたいです。
出来ればとことん、苦手を克服したいと思っています。
私は国語への苦手意識が人並み以上ありましたが、
暗黒(国語バカ)の高校時代が終わりかけた頃に、
スキルがやっとセンスを上回りました。
何となく選んだ問題の答えをはずし、
勉強した所はしっかり得点する。
この感じ です。
文章書きもきっと同じ。
苦手だった論文は、
大学受験・公務員受験・採用試験…
数ある特訓の場でしっかり身に付けられた。
でも、物書きを仕事にしたい!と思ったことは
一度もありません。
出来そうだな、とは思いましたけど。
それなりのスキルを重ねて
世間一般よりちょっとイイ感じのスキルはあんぢゃね?
と薄く自画自賛はしていますし、
だから私は
なんとなく、それなりに、
ライターを名乗り、
報酬をもらえる程度に続けてこられた。
…のだと思います。
そして、報酬を得ることで
スキルに対する自信を重ねているのが 今。
私は、文章を書くことがさほど嫌いではない。
でもそれを楽しいから書いているわけじゃない。
完全に「やるべき仕事」です。
しかしまあ、今まで
13年間かけて私は、
どれほどの文字数を入力し、修正して、
公開され、そのweb上の記事に対して
ああすればよかった、こう書けばよかったと
自分の文をなじり、推敲して
それでも同じような失敗をして、
誰かに指摘されるわけでなく
自分で自分の粗を探すような
アリ地獄みたいな、沼のようなことを繰り返し、
だからといって
そこで自分が止まってしまえば
自分の文章は磨かれずに
モヤがかかったまま決して良くならない。
それが怖い、恐いから
歩みを止められないから
うっすい依頼内容でも向き合って集中して
100パーセント文句のつけようがない文章
を目指して、でも
そんな文は依頼の期限内で書けないことも
わかっていて、どこか諦めていて
自分なりの答えと落としどころを
その時々に探りながら、
1つの原稿を毎回仕上げている。
作業の途中で
「ほぅ、頑張ってんじゃん」
とは誰からも言ってもらえませんが、
納品したインタビュー原稿に対して
「あの音源からこの原稿に仕上げるまで
ライターさんの苦渋と頑張りを感じます」
と言われて
浮かれるほど、ガッツポーズするほどうれしいのは
私がスキルライターだからでしょうね。
センスがある人なら
そうですか?なんとなく書いてみました。
良かったですか?
ってな感じでサラッとしたものでしょうし。
何とかして
落としどころを見つけられた文章は
自分でも、後で何度か
読み返したくなるものです。
(そんなときにまた
反省すべき箇所を見つけてしまう)
きっと、
センスは学びの衝動から積み重ねられたもの。
スキル(テクニック)は…
広い意味で「生きやすくする力」。
私は文章を、
学びたくても自分で切り拓くしかなく、
そのうえ大して好きでもなく、
学びの衝動よりも一生懸命やることのほうを
求められるのが早かった…
だから続けているのでしょう。
これまでの積み重ね、
おいそれカンタンに手放すなんて
もったいないとすら感じます。
今すでに、
自分の文章にセンスを感じている方は、
その(一人称の)文章、
ぜひ1ヶ月後に読み返してみてください。
そして、自分じゃない誰かに
読んでもらうことをお勧めします。
読んでくれる第三者も
毎回変えたほうが良いでしょうね。
文や構成には好みがありますから。
ただ、注意したいのは、
自分が書いて気持ちよかった…
スッキリした
だけの文になっていませんか。
まさか…
書いてそのまま
書き捨て
じゃないですよね。
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