子どもがなぜ勉強するか。
その意味は分からないまま
気がつけば備わっている
考え方 を身につけるためだと
勝手におもっています。
昨日の進学校受験生に向けた
私の言葉に
賛否両論あるでしょう。
あくまでもわたしの主観です。
わたしは 考える という行為を
勉強以外でしないまま
高校まで過ごしました。
なにも考えずとも
わたしは 優しい 気が利く と
いわれるタイプの人間でした。
おおよそ周りの大人は誉めてくれました。
いいおこさん いい生徒 いい我が子…
目指すのが常にここで
大人がいうことに従って
自分で考えずに大人の進めるとおりにする。
それを自分の意志としてきました。
ある日 どんなにがんばって
テストでいい点を取っても
誉めてくれない親に対して
突然不満が爆発しました。
親の勧める通りにして
頑張って結果出してるのに、
なんでほめてくれないの?
すると親は
誰のためにがんばってるの?
自分のためでしょ!
放り出されたような気分になったのを、
いまでも覚えています。
私は
自分でそれまで
勉強と日常がリンクするなど
考えずに生きていたのでしょう。
親がいうから大丈夫。
これが私の判断基準のすべてでした。
勉強はやるべきことで、
頑張るレベルをはかるもの、だろう…
これじゃだめなんです、これからの時代。
殊にライティングの世界は
AIにとって代わられようとしています。
データがすべてのAIではなく
人間が書くものだからこそ と、
思わせるには
データにない新たな見方や切り口、
発想が必要なんだとかんがえています。
あらゆることがAIで実装できると
いわれるいまだからこそ。
勉強→知識と
ひとりひとりが
経験した思考回路を以て
新たな物事や先に求められるものを
考えて生み出し続けることができるのは
人間だからこそ。
新たに思いついたものを
利用して 便利だ便利だと
システムに使われる人になるか。
新たに生み出す側の人間になるか。
この分かれ道は
自分で考えて想像し
話し合って協力し、
更に一歩先をみて行動するかどうか。
なのではないかと
おぼろげにおもいます。
だから、
考えることをやめないこと、
やってみて考えていくことで
享受されるものを便利だと
ぬか喜びして
機械にとってかわられるような
人にならずに
求められる 人 でいつづけることが、
大切なんだろうな。
という、ドラマからの
一人思考迷走中脳内。
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